作品にまつわる悲しい物語を・・・ 1577年、ベアトリーチェはローマ貴族の中でも名家として知られるチェンチ一族の娘として生まれました。一族の長、フランチェスコ・チェンチは若い女と見れば見境なく陵辱するという女癖の悪い男。極悪非道の限りを尽くしてローマにいられなくなり、山奥の村ペトレッラの城へ避難した。 フランチェスコは絶世の美女に成長したベアトリーチェを他の男が寄りつかないように城内に監禁し、時折現れては彼女を奴隷のように酷使した。美しい娘の精神と肉体を痛めつけることに快楽を覚えたフランチェスコは、彼女が20歳になった時、快楽のはけ口を娘の体に求めた。 父親の絶望的な欲望から逃れるため、ベアトリーチェは父親の殺害を決意する。手を貸したのは彼女に同情した継母や家来たち。殺害後、司直の手に落ちたベアトリーチェは激しい拷問に耐え切れず、ついに罪を自白する。家長殺害は極刑に値する重罪だった。 ベアトリーチェは断頭の刑に処せられるため、髪をまとめて頭にターバンを巻かれた。『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』は、処刑の直前、牢屋の中にいたベアトリーチェを、チェンチ家とゆかりのあった枢機卿がグイド・レーニに命じて描かせたと言われている。 ローマ市民はベアトリーチェに深く同情し、死刑に反対した。しかし、その前に立ちはだかったのはバチカンだった。時の教皇クレメンス8世は、チェンチ家の領地と財産の没収を企み、一族全員の死刑を言い渡した。 1599年9月11日、サンタンジェロ橋の広場で、ベアトリーチェと一族の処刑は執行された。 ベアトリーチェが処刑された広場に集まっていたローマ市民は怒りと興奮で騒ぎ出し、多数の死者と負傷者を出したという。グイド・レーニは群衆を描くことに長けていた。しかし彼は、処刑の場面も、怒るローマ市民も、残酷な刑を執行する男たちも描かなかった。画家の筆は最後の生の瞬間を、永遠に変えた。 (テレビ東京「美の巨人たち」番組HPより)
